スマホ社会

スマホは今やTVやパソコンを押しのけて、普及率が最大のメディアプラットフォームだ。「TVの前のお茶の間の皆さん」とTVが呼びかけても誰もいない。社会のニーズがスマホを進化させ、スマホが社会を変化(進化or退化?)させる。すべての事柄を掌サイズに注入しろという事か
 プロパガンダやビジネスがスマホユーザーをターゲットにする。逆に言えばスマホユーザー以外の情弱は相手にしない。固定電話、パソコン、携帯電話、デジカメ、TVゲーム機とそれぞれの成長を並列でみてきた世代からすると、スマホは機能的にはそれらの融合体に見えるけれど、この存在の価値と未来は多分私が知らないものだ。興味深いのは電気も無い発展途上国の民衆がいきなりスマホを手にするとどんな社会になるのだろう。
 今後スマホネイティブ世代の彼等が主流になる。生活の主だったコストの中の車とガソリンの関係がスマホと通信料金の関係に入れ替わる。

誰が一番悪い?

沖縄にはハブという毒蛇が生息している。あるとき誰かがこの蛇の天敵を作れば駆除できるのではないかと思いついた。どういう経緯かは知らないがマングースという哺乳類が導入された。確かに両者が戦えば高い勝率でマングースが勝つ。ところがマングースは強敵のハブとは戦わず、もっと簡単に仕留められる「ヤンバルクイナ」や「奄美黒うさぎ」と言った天然記念物を食するようになった。困った役所は今度はマングースを駆除対象とした。
 どこかで聞いたような話はではないか?
エバの国の住人は罪人だからマングースに身も財産も捧げなければならないらしい。

 

未熟者でございます

週に三日ほどジムに通いプールを黙々と歩いている。
今日もいつもの通り、ロッカールームで着替えプールに向かって歩いていると何だか違和感がある。気がつけば、水着の上にショートパンツを履いたままであった。急ぎロッカーに戻り、先ほど挨拶を交わしばかりの少し先輩の紳士に照れ笑いをしながら「これが老人力ですかねぇ・・お恥ずかしい」と言うと、彼は「そんなことしょっちゅうだよ。ある時は忘れたものが多すぎて何も出来なくてそのまま帰った時もあるよ。はっはっは」と笑い飛ばされた。
 そうですか・・・これくらいでうろたえてはいけない。まだまだである。

びわにプラム・・・この季節は大好きな果物が続々 生きているうちに堪能しよう

らっきょうの瓶

 退職して役立たずの男だが、たまには家事の手伝いをするようになった。難しいことはできないので、もっぱら多いのは食器の後片付けだ。
 先日、私だけしか食べない好物のらっきょうがなくなり、洗い物の際にこの瓶も洗った。硝子びんは綺麗になったが、樹脂製の蓋にこびりついた強烈な匂いは取れない。なんの根拠もないがクエン酸でも洗ってみたが、無駄なようだ。妻は私の奮闘を鼻で笑い「この容器はもうらっきょう以外には使わないからいいの!」と宣告された。つまり本来何にでも使い回しができるはずの前途有望なこの洒落た硝子びんは、これからも私専用のらっきょうの瓶として存在していくしかないらしい。
 さて、退職し競争社会から足を洗った私は今後は欲や浅知恵に振舞わされる必要はなくなった。これからは聖人君子の様な日々を過ごすだろう。ところが分化し終えた最終形態の老人はらっきょうの強烈な匂いがまとわりついた蓋の様に、別の人間に生まれ変わることはできない様だ。

自給自足とまではいかないまでも、ささやかな自給農産物・プチトマト

春はあけぼの・・・・

 子供の頃のこの季節、寝坊すると母が「春眠暁を覚えず」とよく言ったもんだ。私の寝坊を咎めないところを見ると、母も普段より朝は遅かったのだろう。現在、妻を見てると女性はよく寝るなぁ・・・いや、よく眠れるもんだと感心する。と同時に女性の方が長生きだが、もしかすると生きているうちの活動時間は同じなのかもしれないと思ったりする。
 高齢者と言われる様になって、確実に眠りは浅く短くなった。いい気持ちでうとうとするという至高の時間は得られなくなった。妄想する願望もない。お金はあったほうが安心するのだろうが、あったとて何をする時間も元気もない。(持ったことがないので分からないが)元気をどこかに売っていないだろうか?
 人間からロマンというエキスを抜き取った残りカスが、老人と呼ばれる生物なのだろう。何かを求める気力を失ってはいかんと思う春の朝である。

梅見物に行っては見たが、時期が遅くかろうじて残っていた梅

放送大学のオンライン授業

 コロナ禍で面接授業はことごく中止、仕方なくオンラインで授業を受ける。やってみてわかったこともある。それをご報告
 まず、一日パソコンの前にいるわけだから、家族には気を遣わせて悪いなぁと思っていたが、会議ではないので授業中は生徒側のマイクは切っておくのが普通だし映像も同様。また、仮に映像をオンにしている場合も背景を任意の背景画像に置き換えられるので、部屋の様子を見せない様にできる。たとえ、家族がパジャマ姿でウロウロしても、猫が泣き叫ぼうと構わないと云うことだ。私より家族が先に慣れて、堂々と何一つ変わらない日常生活を送っている。出席確認は会議室にアクセスした時点で私の学生番号が表記される。
 一見、講師の一方的な話を聞いている感じだが、それは講師側の進め方次第。積極的に学生の質問や考え方を引き出す工夫をすれば、普通の授業の緊張感は維持できる。もともと大学の勉強なんて自分のためにお金を出して受けているのであって、他人に迷惑さえかけなければ眠っていようが抜け出そうが自由である。そうしたければそうすれば良い。ただし、事前に用意されている教材はオンライン授業にとっては特に重要だ。学生のメリットとしては授業が始まる直前まで他の作業ができることだ。つまり、通学時間がないので時間のゆとりが全然違う。交通費もかからない。
 さて、今は代替えとしてのオンライン授業だが、ただでさえ自宅おいて色々な放送メディアで授業で学習するのが基本の放送大学。その中で唯一、生身の講師に会えるのが面接授業の楽しみでもあった。面接授業までリアルな授業がないとなれば学生である実感がわかないかもしれない。今はまだオンラインは代替えという感覚だが、もし今後これが普通になり講師にしても学友にしても「絶対に現実で会うことはない人たち」となった時にどんな気持ちになるのだろう。学生生活はあるが学園生活はいよいよ無くなる。ネット上のバーチャルな大学に本格的に移行するのだろうか。それがこれからの時代なのだろうか
 今期も前期に引き続き、単位認定試験も郵送だと云うことになった。たとえコロナ禍が通り過ぎても元に戻らないかもしれない。以前よりもっと魅力のある大学になるのか、無機質な大学になるのか興味半分、不安半分である。

ちゃんと秋がきた

多分、こんな夏ははじめてだったと思う。
私が住んでいる福岡市は山笠で梅雨が終わり夏になる。筥崎宮の放生会で夏が終わり秋になる。春先に遠くに見える烏賊(いか)釣り船の漁火が、真夏になるにつれて近くなり夏の終わりにまた遠くなって秋になる。「ああ、あんなに漁火が遠くなって」と言うセリフが夏の終わりの挨拶だった。今では烏賊もいやしない。そして全てのイベントがコロナ禍でオジャンとなった。
 今年は梅雨は終わらないかと心配したが8月直前に明け、充分すぎる灼熱の日々の挙句9月の2発の台風で完全に秋になった。人間界のイベントは何の関係もなかった。何れにせよ2020年の夏は異例中の異例だったが、これから先も天変地異や厄災は続くのだろうか?
 さて、今日は誕生日だ。67年間も生きてきたのだから、若い人たちには「それだけ生きれば十分でしょう」と言われそうだ。確かに50年前だったらそうだったかも知れない。戦争も飢饉も経験せず平和な時代に生きてこられて良かったと思う。平均寿命から考えると命のロウソクはもう80%弱くらいの消化率かな?健康寿命があと10年続くとして3600日、一日のうちの自由時間はその三分の一くらい。時間は大事に使わなきゃね。きな臭いけど平和な時代が続きますように

疲れる世の中(サブスクって知ってる?)

年末、クレジットカードの請求書を見ていると APPLE.COM/BILLと名目が2つある。1つはいつものいiCloudの追加容量の使用料、もう一つが分からない。Appleで購入したものはiTuneというアプリの中に履歴があるので調べるが、その中にない。Applestoreでの買い物と言えば、前述以外では音楽やアップルムービーで映画を視聴するとかiPhoneのAPPstoreでアプリを買うくらいしか思いつかない。少額なので犯罪がらみではないとは思うが、把握できない支払いは気持ちが悪い。アップルサポートと2度ほどメールでアドバイスを受けてを夜遅くまで調べたが分からない。
 結果的に解決したのだが、自分の馬鹿さ加減にどっと疲れた。実は途中でAppleIDを2つ持っていることを思い出した。なんせクラウドと言うシステムが一般的になる前で、まだiCloudがMobilmeと呼ばれていた頃のこと。当時はどこからでもスマホとパソコンのデータがやりとりできると言うくらいの認識しかなかった。どうやら、iPhoneを買い替え時に2つのIDを持ってしまったようである。だから日頃使っているIDをいくら調べても無駄なことだった。なぜか2年前に、使っていないほうのIDで当時のiPhoneにアプリをインストールしていたのである。自分では無料のつもりだったのだが、どこかで有料版への移行を承諾をしていたようである。それが1年間の期間を経て請求が来たのであった。
 iTunesとAppを一度ログアウトしてもう一つのIDでログインすると発見!しかしこれだけでは終わらない。購入したのはアプリではなくサブスプリクションという形式のもので会費を払うとその額に応じた期間使用できるサービスのようなものであるらしい。これを解約するにはスマホでは「定期購読」を探して解除するらしいが、私のスマホではそこまではたどり着かなかった。そこでMacのAPPStoreの管理画面でやっとサブスプリクションの設定にたどり着き、解除することができた。後で今回、頭の中でやってきたことを整理したが、AppleIDを2つ持って混乱したことと、アプリの購入ではなくサブスプリクションと言う期間貸しと言うシステムだったという事が主な原因だった。
 現金を払い、箱に入ったアプリを買って帰ってインストールしていた時代がシンプルでいい。すべてネットで済む世界では、自分の失敗と犯罪の見分けがつかない。この先、ついていく自信がなくなっていく。

俺は知らん

久しぶりに東京に台風がきた
九州の人間として言わせてもらうと、「たまにきたぐらいで、大騒ぎするな」って気分。それにしても、あの慌てぶりは何だ。通りすぎたら今度は駅が大混雑、それをジャーナリストなんかが「そんなにしてまで、会社って行かなきゃいけないもんなんですかねぇ?」
ああ そうだよ。その哀しいまでも秩序を守り、義務を果たそうとする日本人の真面目さが、世界と戦ってきてここまでの地位を築き挙げたんじゃないのかね?阪神淡路大震災の時に、家族の安全を確認した後、皆がしたことは職場に駆け参じることだったよね。あの状況で、愚直までに恒常性を発揮してコンビニはライフラインとして、皆に頼られたんじゃないか。あの時、何だか日本人の強さ、美しさを感じたもんだ。あれからどれくらい日本人が変わったのか知らないけど、今はSNSで「この日くらいに休みにしろ」「この日に出勤とは鬼畜か」とか好きなこと言ってる。だったらその通りやってみろ。どうせ、俺はもう今の感覚についていけないんだし、この国の将来はてめらで決めろ



定年再雇用、定年延長?

退職後、まる3年経ってすっかり現役感は脱色された。それに伴い新しい生活パターンが身についてくる。退職当初にあった、新しい生活への期待や意気込みも時間と共に薄れ、ショッピングモールで連れ合いの後を追う老人のひとりになり下がってしまった。自分なりに勉強や趣味に時間を費やしているつもりだが、目的も義務もない自己研鑽は、怠け心との戦いで当然負け越している。

我々の世代は定年まで頑張って、余生をのんびりと過ごすと言うスタイルを当然の様に考えていたが、今後はそうではないらしい。定年延長は労働力不足と社会保障の負担増が原因のようだが、ゴールを見据えて頑張っていた同輩たちはゴールポストが動いたようで複雑な気持ちだろう。経済的にはありがたいが、組織の中ではアルバイトや契約社員の様な立場だ。働くことにもっと崇高な意味を求めていた自分たち世代には、労働というものは所詮は時間束縛と賃金の交換なのだと、そう簡単に割り切れるものではない。

そもそも定年延長と言っても、就業規定通りの定年を迎えたのちに、新たに再雇用契約する場合が殆どだろう。つまり地位や権限はリセットされ、今まで培ってきた反射運動だけを続けてくださいと言うことだ。「個の存在はもう必要ない、シフトの穴を埋めてくれれば良い」と言われているわけで、これが本当の定年なのだ。今まで取り組んできた会社や組織の色々な課題対策などの責任感にはきっぱりと決別し、与えられた目の前の業務だけを処理すれば良いのだから、なってみれば気楽なのかなぁ。そんなチャンスは無かったけれど・・・・・。