オリンピック、ダビンチが怒っているよ

近々オリンピックがあるらしいとは知ってはいたが、週末に開会式があったので見ていた。この開会式は色々物議を醸しているらしい。自由主義の最先端を自認してるフランスらしい「ぶっ飛んだ」演出だった。これをうまく受け入れられないのは自分の年齢のためかと思ったが同じように感じる人も多いらしい。
 もともとLGBTには不健康さを感じているが、これも生まれつきの個性ですと言われたら(そうかぁ・・・だったらしょうがないね)くらいのものだった。今回、分かったのはLGBTの自由というのはことさら性的アピールをする自由なのかと益々関わりたく無くなった。なぜオリンピックでことさらLGBTの人たちの自由をアピールしなければならなかったのか?むしろ我々ノーマルな人種が常識に囚われた「非自由人」と言わんばかりの上から目線である。これが欧米人のいわゆる「意識高い系」の源泉か?
 これが自由主義の行き着く先といえば(なんだかなぁ)と思ってしまう。程よい自由主義世界にとどまることは不可能なのだろう。ロシア、中国などの権威主義の国から見れば「見ろよ、自由主義国家の退廃ぶり。あんな国家になりたいか?」と国民に訴える機会を与えるようなものだろう。
 日本人の大切な天皇や皇室を「表現の自由」という名目で蔑ろにした「自称芸術家」を放置しなければならない社会、そんな輩に表現の場を与える自治体。自由主義国家というのもストレスが溜まるもんだ。

夏の朝に短い間だけに咲く朝顔
我々も宇宙時間で言えばごく僅かな瞬間を生きているだけだ。その中で多様な生き方がある。名も知れず路上で息たえる同輩もいれば、何十万人も戦場に送る独裁者も同年代である。この地球に同じ時に生まれたが、何一つ共有するものがないままそれぞれの咲き方をして枯れていくのである。

俺たちと一緒じゃ困る

私は会社員を30年間ほどやった。
時代は昭和から平成へ、まだ若く血気盛んな私は各地に散らばった同じ事業部の同僚に声をかけ、年に一度集まって酒でも飲んで盛りあがろうと言うことを始めた。その際、土建屋さんや田舎の爺さんたちのような「品のない宴会」をやってみようと言うことになった。仕事はなかなかハードな時代だったし同僚は同志みたいなものであった。実際に土建屋さんがそんな宴会をしているのかは知らなかったが、当時の温泉街にはそういう需要に応えるべく環境が整っていた。(そう言う場を盛り上げてくれる女性たちをスーパーコンパニオンと呼んでいた)かくして宴会翌日にはみんな上機嫌で来年の再会を約束して別れたものだ。
 今回、自民党の若手議員が研修会後の懇親会で行ったと言われている「下品な宴会」は我々が行っていた昭和の宴会に近いものであったろう。我々と違うのは、議員というものは選挙民からの請託を受けた特別な人たちであることだ。幼い頃から周囲から親の地盤、看板を引き継ぐことを期待され、当然のように議員になった人は何万票の重さが判らないのかもしれない。
 最も恐ろしいのは、そういう特別の立場にある人たちが100人単位でC 国へ視察や会議名目でわたり、果たして何人が無事に買収やハニートラップを跳ね除けて無事に帰国できるのであろうか?最近、権力中枢にさえその影響を感じることがある。そしてなぜかそのことを報道しない大手マスコミにも不思議さを感じるこの頃である。

二つの世界

 私は家電好きなのでAV関係の機器はほとんど揃えてある。我が家の居間の壁には55インチのTVが鎮座している。しかしTV番組はほとんど見ない、ネット動画が主である。
 我が家の情報収集は1日3度のNHKプラスのニュース配信と地方紙とネット動画である。私にとっては地上波のドラマやワイドショーはいつの間にか退屈になってしまった。おかげで巷のトレンドに疎くなりタレントさんの顔と名前がほとんど分からない。特段、信念がある訳でもないのでまたいつかきっかけができれば昔のようにプロ野球ニュースくらいは視聴するかもしれない。反面、YOUTUBEは短編なのでついついチャンネルを渡り歩き気がつけば数時間経っていたりする。中でも時事ネタに関しては新聞などのメジャーメディアとネット界隈のトレンドは随分違うし深さも違う。なんでこんな大きな問題が新聞やTVで話題にならないのだろうと不思議に思ったりする。特に政治家の不祥事やC国、K国との安全保障に関する事柄はどの新聞もTV局もまるで腫れ物に触れるように沈黙している。その横並びの姿勢に思わず、こんなにたくさんTV局はいらない、こんなに新聞はいらないと思ったりする。ネットの世界ではもっと自由に報道されている。無責任な記事も多いが色んな見解があって面白いのでつい見てしまう。
 一昔前、私や妻は新聞も読まない若い人たちがネット記事だけを読んでいることに「エコーチェンバー現象」と危惧したものである。つまり自分の興味や琴線に触れた事象だけを深掘りしていく行動は偏った情報とそれから生み出された狭い視野と思考に陥るのではないかと思っていたのである。ところが今の私は同様の症状に染まっているのだろうか?
 TVや新聞でしか情報に触れない人々とネット上からも情報を収集する人たちの世論はたぶん違うだろう。そして今まではネット界隈をうろうろしていた人たちは少数派であったかもしれないが、これからは逆転するだろう。TVで時事問題への意見をご贔屓のタレントさんやお笑い芸人からのコメントを伺うのも良いが、私はネットでそれなりの専門家からの解説を聞く方が面白いと思うので益々TVが縁遠くなるような気がする。

誰が決めた?

車を買い替えようとしたが無期限に留保した
10年目の車検を迎える我が家の車はスポーツタイプで大好きな車だ。しかし大腿骨を痛めた妻が乗り降り時に苦労しているのを見て、これは申し訳ないと思い二人で近所の車屋さんを訪れた。誰もが同じだと思うが車なんてそうそう買い替えるものではない。久しぶりに覗いた某外車メーカーの展示車両の値段を見て驚いた。こんなコンパクトカーが数年前の高級車の値段になっている。しかも好きでもないSUVスタイルに残り少ない老後資金を投入する気は起きず隣の国産メーカーへ行った。ここでも全く興味のないSUVばかり紹介される。唯一のセダンが超定番のハイブリットカーで試乗までさせてもらった。新型は随分と高い車になっていて予算オーバーだが、それでも妻が気入れば止むおえまいとお金のやり繰りを考えていた。後日、下取り査定に車を見せに行った妻に営業マンが言うことには「お宅のマイカー利用形態ではハイブリットはメリットがない」とのことであった。妻も他に魅力のある車はなく、今の車が好きだと言い出しこの話は頓挫した。
 今回の件でEVは全く考慮しなかった。EVは環境に優しいという話は信じていないし、環境後進国とのコンプレックスを抱えた日本が、トヨタの意見を無視して欧州の策略にまんまと嵌められたと思っている。そんな愚策で我々の税金で補助金を出したり、充電ステーションを建設するなんてしてほしくない。まずEVが我が国の環境保全政策に合致している根拠を国民に示すべきだと思うし、大金を投じるなら国民に信を問うべきだと思っている。しかしそんなことを言ってくれる政党もない。どうなっているんでしょう?この国は・・・

昭和びと殺し

洗濯機を買い替えることしにた。
ずっと乾燥機能が壊れていたが倹約家の妻は「どうせ使わないから」とそのまま使っていた。洗濯干しは浴室乾燥でも代用は効くがお日様が一番経済的で良いのだとの固定観念が妻にはあるようだ。空中に飛び交うダニだろうが埃や微粒子なども全てお日様が退治してくれるという日光万能論者である。「乾燥機能なし」はそれで良い?としても洗濯機そのもののメンテナンスには内蔵ヒーターは必要なようだ。今はなき家電メーカー製なのでもう部品は手に入らないということだった。そのため、いつかは買い替えなければと思ってはいたものの「勿体無い」が決断を先送りしていた。こんなまだ使えるのにと買い替えるを躊躇する昭和人の背中を推してくれるのが「下取りサービス」の謳い文句であった。良く考えたら、再生品としても全く価値のないものを下取るなんてありえないので、単なる値引きの口実であるろう。その証拠に広告の下に小さな文字で(下取り品がない場合でもご相談ください)と書いてある。それでも「下取り」と言う言葉の響きはモノを大切にしてきた昭和人への殺し文句である。妻も古着を売りさばくまではと言う口実で部屋を片付けない。
 こうして新しい洗濯機が我が家にやってきた。型落品とはいえ新品である。前任者の洗濯機が15年間働いてくれたのだから、貴殿には私と一緒に棺桶に入るつもりで働いて欲しいと国産メーカーのエリート洗濯機に語りかける。しかし其奴は搬入時に妻のお気に入りの壁クロスに大きな傷をつけ、納入業者と善後策を話し合う羽目になったのである。

怒号飛び交う確定申告

我が夫婦は手続きごとが苦手である。
毎年、この時期には僅かな還付金欲しさに確定申告をする。年金以外に収入はないのだから、たっぷり払った医療費の僅かなお返しを願うわけである。
最近、マイナンバーと保険証書が紐付けされて楽になった。これで医療費は過不足なく集計できる。あとは生命保険、地震保険が控除対象である。手元に年金の通知書さえあればすぐに終わる。
 例年は色んな通知書の行方がわからなかったり、病院・薬局の領収書をかき集めるのに大変だった。お互いチャランポランの夫婦なので責任のなすりつけあいで険悪な空気になることもしばしばであった。一昨年、昨年とe-TAXで行うようになり、手続き自体は慣れてしまえばなんてことはない。問題は我が家の文書管理である。
 昨年も書類の行方で険悪な空気となった。何十年も連れ添った夫婦が歪みあって得られたのは六千円ほどの還付金である。今年もそんなもんか......

親の背中を見て子は育つ

 1960年頃、私は小学生低学年だった。毎年、夏になると海辺の我が家は「海の家」を営んでいた。舗装もされていない海沿いの砂利道を砂埃をたて、鈴なりのバスがやってきた。人々は避暑に海水浴にと押しかけてきた。毎日がお祭りのようであった。それがある時からパタリと途絶えた。物心がついてから知ったことだが、押し寄せてきた人たちは殆どが産炭地からの人たちであった。娯楽の少ない時代だったので夏の海に行くことは最高のバカンスだったのである。なので海辺の住人にとっては飲食料、バンガロー、貸しテント、はたまた貸し蚊帳までなんでも商売になったようである。
 ところが日本にエネルギー革命が押し寄せ、短期間で石炭から石油に時代が変わった。我が国はスパッと炭鉱を切り捨て石油の輸入に舵を切ったのであった。それが功を奏して未曾有の高度成長時代に突入したのであった。そして切り捨てられた産炭地には大量の失業者が生まれた。技能や知識のある人たちは転業もできたのだろうが、単純作業に従事していた人たちは宵越しのお金も無く、そのまま炭鉱住宅に住み続け、失業保険が切れればそのまま生活保護の暮らしを続けるしかなかった。多分、炭鉱会社やお上はそれなりの相談には乗ったのだろうがその場にしがみついた人も多かったようである。
 正直、旧産炭地は治安が悪かった。長い間、ずっとそんな暗いイメージであった。生活保護での暮らしを余儀なくされた家庭にも子供はいる。そして子供らは働くことを忘れた親を見て育つのである。それが何代も続けばどんな人間が育つかは想像がつくだろう。
 今、パレスチナには何百万人の難民がひしめき合って生きている。彼らを難民にしてしまった後ろめたさか、先進国は国連を通して大量の支援金を投じている。聞くところによると、一人8万円、大所帯の風習の民族だから五人もいれば月40万円の収入相当の援助をしているらしい。よく知らないがあの中東地域でこれだけの所得水準であれば働くことは必須ではなくなる。穿った見方をすればむしろパレスチナ国などを建国するよりも被害者であり続ける方が良いと思う人が生まれるのも必然かと思う。しかし実際は支援金は彼らに行き渡らなくて、なぜかハマスの幹部が大富豪であることは国連は知っていたのではないか。
 本当に国連がしてきたことは良かったのであろうか?日本の旧産炭地の復興は国や県が辛抱強く大学や産業を誘致・育成してきたのである。パレスチナでは肝心の教育現場で国連職員の仮面を被ったハマスが、イスラエルや西側諸国への憎しみを教えていたのであれば絶望的な状態ではないのか。そしてそれを国連、少なくても現地の担当者が知らないはずは無かったはずである。我が国は世界一、二位の拠出金を出している国連中心主義の国である。そろそろ建前ではなく現実に目を覚ましたらどうかね

愚民を憐れむ詩

政治や経済の難しい話はあまり触れないことにしているが、それでも今回の自民党の裏金問題は驚いた。それにもまして「ほぼ」不起訴になるという話は更に耳を疑った。こんなもの国政を語る以前の話ではないかと思うが?
世界情勢がきな臭い中、隣近所に恵まれない我が国も危険な状態。GDPは長年の無策により独国に追い越され4位に転落。高度の少子高齢化では先の見通しも暗い。こんな大事な時に国政を任せた議員様は先ほどの旧統一教会の問題といい、自分が議員であり続けることだけにはご熱心なようだ。平和ボケしているのは国民ではなく政治家ではないのか?ロシアや中国のような独裁国家の腐敗ぶりを嘲笑していたが民主国家だってこんなもんだ。こんな政治家しか選べない我々国民は憐れなものだ。
 今の我が国にはかつての明治維新のような革命が必要なのでは?
    ・・・・・そんな国士はもういないか

今の時間を大切にしよう

先日「あけましておめでとう」と挨拶を交わしていたがもう1週間すぎてしまった。歳を取れば時間はゆっくり流れるものと思っていたが、いざ野良の身になってみると時間の過ぎるのが早い。退職して9年目になるがあっと言う間であった。一日が過ぎるのが早い。今のところ曜日を間違えることはないが日にちの勘違いはよくある。
 義母が在命の頃、彼女の容態について主治医から説明があった。C型肝炎から肝がんへ移行した典型的な例だった。3年間は海外も含めて旅行などは問題なく動けます。その後は病気の影響が徐々に出てくるでしょうとのことだった。果たしてその見立て通りに経過を過ぎていった。おかげで元気なうちはできるだけ小旅行に誘い妻と三人で季節を楽しんだものだ。
 今、私は大動脈をに爆弾を抱えている。幸い安定期で普通に生活ができるいるが、先のことは全く判らない。現状維持が最良の日々である。
 健康の頃から思っていたことがある。「10年間はなんの心配もなく生きられるが10年後は確実に死ぬ 」もしくは「逆に明日死ぬかもしれないが、ずっと生きられるかもしれない」・・・・・・どっちがいい?

今年も大変そう

静かな元旦の午後、年賀状でもみようかと思っていた矢先に突然の地震警報。能登半島で震度7の大地震、5m級の津波発生。
東北大地震とその後続いた混乱が脳裏に蘇る。
今日は元旦、被災地の方々はもちろん久しぶりに里帰りした人、たまたま旅行にきていた人、その日は遠くに出かけていた人、みんな不安でたまらないだろう。今のところ被害の全容ははっきりしない。定点カメラで建物が壊れていくのが見えた。どうか小さな被害で済んでくれよと願うばかり