今日明日はいや!

ネットニュースを手繰っていたら思わず想定外のページに迷い込む時がある。

今回、偶然たどり着いたのは「75歳を待たずに死亡、なぜ増えているのか」という縁起でもないページだった。最近75歳以前の死亡者数を見ると、確実に増えているという。現在の平均寿命は、男性81・05歳、女性87・09歳、健康寿命は男性72・68歳、女性が75・38歳という。では健康寿命とは?と手繰ると「心身ともに自立し、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間を指す」と言う。それには65歳前後までの生き方が重要だというが、今更そんなことを言われても間に合わない。高度医療に支えられて生きるようになってから30年近くなった。75歳までもう少しだがたどり着けるか不安。時間を遡って30年前の自分に「それはやめろ、あれはするな」と言ってもあの頃の自分は聞く耳を持たないだろうなと思う。その愚かさが私という人間だった。たまに野放図な生き方をしても長寿を全うした人もいるが、そんな宝くじに当たるような奇跡を自分に求めたのかもしれない。

しかしなぁ・・・・なんだかんだ言ってこの歳まで粘り強く生きてきたんだから、もう少し生かさせてもらえないかな

男女共同参画

高市さんが新総理大臣になった。
憲政史上初めての女性総理の誕生にもう少し話題になるかと思ったが、それより彼女の保守的な政治信条の方に興味が集まっているようだ。もちろん良い政治を行うのに男も女もないが、それにしてもいつも叫ばれている「男女共同参画」の一つの成果だろうからひとまずはそれに対する評価があって良さそうなものだ。総理任命選挙の前の自民党内の総裁選の時からマスコミや多くの評論家が彼女ではないことを望んでいたように見えるし聞こえた。なんだかマスコミや行政組織は、この国を国民が選んだ政治家ではなく彼らが導こうとしているようである。それは我々国民は愚かで導くかあるいは従わせるかしかないような振る舞いである。そういうTV局はしまいには自分と主義主張が合わない政治家に「死んでしまえ!」という名物コメンテーターの暴言を編集もせずに放送することさえやってしまう。もうやりたい放題である。
 しかし我々にはできることは主権在民、民主主義を信じて投票日に自分の思いを託すことだけである。

またもお別れ

長い長い夏が終わった。
夏休みが終わり、放生会が終わり、誕生日がすぎ、お彼岸が過ぎた。
本当に暑い夏だった。寒い夏とどちらが良いかというとなんとも言えない。経済的には夏は暑く冬は寒い方が良いと言うがこう極端ではどうなんだろう。
今年の夏はトランプ関税、石破下ろし、高校野球広島広陵事件と色々あった。それぞれについて私なりの意見はあるし誰にも言い分があるだろう。オールメディアの誘導があろうがSNSで叫けぼうが結局選挙でカタをつけるしかないか?昔から急進的な活動家がやたら目立って、あたかも民衆を導いていくような気になっているが錯覚である。物言わぬ大衆が何も考えていないわけではない。心の中では明確で強固な意志を持っている。
 それより今年の夏の最大のショックは長年親しんできたYOUTUBEチャンネルの「I am MARU」の主人公猫 まるさんが亡くなったことである。昨年のもん太に続く悲劇である。

少しずれている

この夏の参議院選挙は特別だったし今だにその余韻は続いている。日頃、難しいことは考えない私も今回の選挙は興味深く見ていた。
特筆すべきことは初めて外国人との向き合い方に問題提起をする政党が出てきたことだ。一部の活動家やマスコミは外国人排斥だと騒いでいるが、多くの国民がやっとこのことをまともに取り扱ってくれる政党がでてきたと思っただろう。我が町内にもいつの間にか増える続ける外国人、彼らが正規の手続きで入国して滞在しているのかも定かではない。夫婦別姓のことやLGBT、再生可能エネルギー問題など多くの国民が望まないことを大声で怒鳴って煽る活動家やオールドメディアがいつの間にか自分たちが主流だと勘違いしてきた。日本が右翼化してきたわけではない、極端な左翼化に対して「それは違う」と国民が意思表示しただけのことだ。多分、次の選挙をやっても同じことだ。日本人は我が国の国旗を足蹴にしたりばつ印をつけて降りかざす活動家に政治を任せることはないと思う。

夏休み

大人になると色んな人間関係を持つ。現役時代には仕事や私生活で交際範囲は広く単純な敵とか味方とかではないにしろ緊張感を持つ関係も多かった。プライベートな友人・血縁関係でも単純なものではなくなる。引退したらそういうしがらみから解放されるだろうと思って耐えてきた。やっとその時が来たら・・・やたらと地域活動や「仲間を入って楽しい老後を!」と余計な誘いも多い。あたかも何かに所属していないと漂流するかの如く脅迫される。「どうせ毎日暇だろう?」的な誘いもある。人間関係も大切だが、もうこれからは自分のペースで世間とはおつきあいさせていただくことにする。
 大人になると神経を削るような嫌なこともあるが、時折子供ころを思い出し「私にも楽しかった頃もあったんだなぁ」と懐かしむこともある。高校生の頃まではだいたい通学範囲も偏差値も近く経済的な階層も同じようなもので付き合いやすかったなぁと思う。これが大学になると世界が広くなり実社会にちかくなる。

夏休みに公園で元気に遊んでいる子供達を見ると、この子らにたくさん楽しい思い出が残りますようにと祈らずにいられない。人生で一番楽しいはずの時代をいじめや虐待で滅茶苦茶にしてはいけない。大人になって活躍してもらうには健全な幼年期、少年期が必要だ。

米はふるさと

米をあまり食べなくなった。
朝はパン、昼はパスタやうどんなどの麺類。夜は家族で食事をするからこの時だけはご飯を中心のメニューになる。つまり夕食以外は孤食である。ご飯は好きだが一人で食事の準備をするにあたってご飯を中心としたメニューは面倒なのである。
それでも一定量の米は消費する。妻は高くなったと嘆いている。妻はご飯のおいしさにはこだわりがあり、そのためには炊飯器を替えたりするくらいだ。
彼女は令和の米騒動は口には出さないが静かな怒りを秘めている。先日、農林大臣が更迭されたがあからさまに生産者側に立つ政治家に米価のコントロールをさせるなんて正気の沙汰ではない。農協が農家の為になっているのかはわからないが、農林省が高く売りたい側に寄り添う今、消費者側に立ってくれる省庁が見えないのは不公平ではないか
 政治のことはよくわからないが、こんな政党に投票するわけがない

なんだかなぁ

三歳下の妻が年金をもらえるようになった頃の話。やっとこれで二人の年金が出揃うと喜んだが、すかさず私の年金の減額通知がきた。つまりなんのことはない規定に則り分割されただけのことであった。それでも妻は自分の名義の年金がもらえることに密かに喜んでいたようである。まぁそれで嬉しいならそれでよしだ。
ところが、当然のことながら生活費を払い出してる私の口座の残金が早めに心細くなる。いつもなら貯金を切り崩したりして補填をしなければならないが、妻にいうと「じゃ私の口座から出しておくね」と言った
 ????「私の口座」???では俺の口座はなんなんだ。私は妻の口座の暗証番号もパスワードも知らない。私の口座の通帳は妻が持っている。

うーん

最後の分かれ道かもしれない

我慢のことを自主規制と言う
誰でもが未来のために今日の何かを我慢することは常だろう。幼少の頃から意志薄弱だった私のような者でもたくさん我慢してきた。
あしたから試験だからテレビはここまでにしようとか、生活が苦しくなるから欲しいものをあきらめようとか、体に悪いからお酒はほどほどにしようとか、年代に応じて我慢するものは変わって言ったがいつも何かしらの我慢はつきものであった。
 ところが命に関わるような病気を経験し次に再発したら無事で帰還する可能性は低い。そうなると私の選択肢は「思い残すことのないように全ての我慢から自らの解放する」あるいは「少しでも再発のリスクを下げるためにさらに自主規制を強める」と言う選択肢に迷うことになる。ここで人間の本性が現れる気がする。小心者の私は後者をとっている。

  • 博多の春の風物詩「博多どんたく港まつり」最近は派手なパレードがどんたくと思われがちだが元々三味線などの鳴り物とお囃子で商店を周り景気付けしていったあと、こんな演舞場でドンタク隊が演舞をお披露するのが本来の姿。歳をとると子どもの頃におじさんの店に来ていたドンタク隊が懐かしい。

ビンボー

これも若い時の話だ。
仕事の最中、得意先との会話の中で彼が「俺が若い時に先輩から言われたのは、商売は貧乏人相手にやれとのことだ」と言い出した。氏の言うところによると「貧乏人は無駄使いをする。金持ちは財布の紐が固い」とのことらしい。私が貧相でお金のない雰囲気を醸し出していたのかは分からないが、耳の痛い話であった。確かに貧乏人気質の私は衝動で物を買ったりついでで物を買ったりする。今般、百円ショップが盛況なのも理解できる。お客が必要なものだけを買っていれば成り立たない商売だ。今にして思えば人生の先輩から貴重な教訓をいただいていたのだ。
 当時、独身の私の部屋には何故買ったのか分からないものがゴロゴロしていた。不急不要の買い物が生活を苦しめたりしていた。流石に結婚し可処分所得が激減してからはそんなことはできなくなったが….。人生の終盤にきて少しばかり貯まった小遣いを数えて、何か欲しかったものを買おうとしても終活の最中では今度は欲しいものが見つからない。田舎者で貧乏家庭出身の私にはカタチの無い芸術やボランティアにお金を使うことを知らない。ウクライナ支援に一万円寄付したことをいつまでも覚えているような小さな人間だ。演歌歌手を追いかけたり、ギャンブルにハマるほど熱い人間でもない。
 ここで私はふと気がついた。本当の貧乏はお金がないことではない。本当に好きなものや欲しいものに出会えなかったことだ。今頃、もっと若い時に身につけていなければならないことがあることを知った。

小心者につき

 最近、何度か就寝中に金縛りに遭うことがあった。若い頃にも何度かあり、その時に周りの人に聞いたら経験者もいたし「何それ?」という人もいた。不思議なことに明るい下では起きず暗くして寝ている時に起こるようだ。諸説あるがいまだに理由はわからない。
 金縛りで困るのは、体が動かないし声も出ないのに意識だけがあるということである。必死にもがいてしばらくして解放される。オカルトめいた話には興味がないが、ふと「もし死んで肉体が無くなった後もこんなふうに意識が残ったら恐ろしい」と思った。無間地獄があるとしたらこんなことか?
 人間のタイプとして死後の世界があるかも知れないと思う人とそんなもの無いとキッパリという人がいる。死後の世界など合理的に考えてもあり得ないと思うのだが、それでも幼い頃から大人になるまで、死後は「生前の功罪を裁かれる」とか「先に無くなった人やペットに会える」とか言う会話は何度となく交わしてきた。なので多くの人は信じる信じないは別に「あの世」を考えたことはあるのでないか。むしろ「死ねばそれで終わり。何もない」と躊躇なく言い切れる人が羨ましくもある。「生命は永遠なのか?」と言う問いは老いを重ねればどうしても考えてしまうテーマである。私の現在の妥協案としては「死ねば生命は肉体を離れ記憶も全て失い、天(宇宙)に戻りダークマターの一つとなり、次の出番を待つ」としている。
 冒頭のような存在、地縛霊のような「無間地獄」は人間が作り出した想像上の世界だと思いたい。と言うことはやはり死後の世界をなんとなく恐れているのだな