リタイアしてしばらくは現役界の余韻があり、また後輩たちとの交流もあり違和感はなかったがしばらくすると自分が別世界へ来たことを痛感する。 全ての所属や肩書き無くなる。たまに現役世代の人から名刺をもらうがお返しするものがない。街で買い物をしたり飲食するが対応してくれる人は名前よりは「老人」と言う括りが先にくる。先日、開店したばかりの飲食店で「ここでの注文はタブレットでしていただく方式なんですが」と心配してくれる。65歳の誕生日がやってきた時、地域の福祉委員さんが「私があなたの係です。お困りのことはありませんか?」と親切に聞いてくれる。70歳を過ぎると医療費が安くなった。電車で初めて高校生から席を譲られた。衝撃にその親切な若者にすぐにお礼が言えなかった。すまない。同級生からの音信も遠くなる。交友関係も櫛の歯が抜けるように減っていく。もちろん異性を意識する場には縁遠くなるが、だいたい現役界の性別と違い老人界でのオスメスは形態の違いでしかない。やがて予定表には病院の検診日と町内の用事しかなくなる。わずかな外界との接点である昼間のスポーツジムで元気な同輩先輩と交流できる。ここではほとんど「老人界」一色になり固有名詞で呼んでもらえる。話題は当たり障りのない話ばかり。病気の報告や行楽の報告はよく飛び交うが、過去の自慢や家族の自慢話はここではあまり聞くことはない。この歳になると上には上があることを知っている人たちが多い。ある意味、ここはレベルが高い。
別に歳をとることを嘆いているわけでもない。気がついたことを感じたままに書いてみた。老人界は現役界と冥界とを繋ぐ「渡り廊下」のようなものだ。ゆっくりとその景色を楽しみながら歩けたらいいなと思う。
死にたくない
若い頃、仕事上の先輩が「金と鼻くそはたまればたまるほど汚くなる」といつも言っていた。金が貯まったことがない私は意味が分からなかったが、老後の資金を意識し小銭を数える歳になったら、お金に執着するようになった。
それと話が違うかも知れないが、若い時に消化器系の病気で緊急入院したことがあった。6人部屋では色んな世代の人がいたが、元気の良い?中年の男性が「もしいい歳になってがんになったら死んだ方がいい」と言うと、隣のベッドの100歳になる癌で入院のご老人が「いくつになっても、もう死んでもいいとか思わないものだよ」とたしなめられた。ご両人より若かった私はそういうものかと聞いていた。
それからも病気をするたびにご老人の言葉を思い出すが、ふと思えば若い時の方が簡単に「死ぬ」という言葉を吐いていたなぁと思う。歳を取れば取るほど命に対する執着が強くなるのを感じる。もう「お迎えが来てもいい」などの老人の言葉は信じない。この歳まで生きて来れたから「もう死んでもいい」とはけっして思わない。