カレンダーについての四方山ばなし

今回の年末年始はカレンダーが少なかった
いや、足りなかった訳ではない。本当に必要な数はあったし自分の好みのカレンダーはちゃんと買った。今までは沢山貰えたから、そう感じただけだ。いつもはかける場所を探すくらい沢山頂いていた。高価な名画やセンスの良い置き物など無い我が家にとっては、カレンダーはそれなりに壁の装飾にもなっていた。結果、狭い家に4、5カ所もカレンダーが下がっている。その上、正月明けともなると使わなかった幾つは捨てていた。もったいないことだ。
 妻はスケジュール管理としてカレンダーを用いているようだが、私は手帳からスマホに移った。それでもカレンダーを見ながら夫婦で予定を話し合ったりする。それがカレンダーの本来の機能なんだろう。現役時代なら今日が「何日」で「何曜日」なんかは体が覚えていたものだが、今はカレンダーで確認することが多い。子供頃(昭和30年代)、私の生家には年末には来年の大きな日めくりの「暦」が柱にかけられた。家族みんながそのカレンダーで行動をしていた気がする。あの頃は1ヶ月を俯瞰してみる必要は無かったのだろうか?思い出せないが貧しくても家族が家族らしくあったような気がする。
 いつの間にかカレンダーや手帳が年末の挨拶がわりの手土産になり色んな企業のカレンダーをもらうようになった。年々その数も増え買うことは無かった。勿論、本屋さんはじめ色んなところで素敵なカレンダーも売ってはいた。それが近年、頂ける数が段々と少なくなってきていた。現役を離れたこともあるが配布しなくなった企業も多くなったようだ。とうとう今年はついに買うことになった。ある意味、カレンダーに解放された気分である。いくら貧しくてもカレンダーの1〜2部くらい買える。やっと「もらい物印」の企業ロゴから解放され好きなカレンダーが選べる。
 私が若い頃ラジオのニュースで、販売される「マッチ」より無償配布されている方が多くなったと聞いたことがある。確かにその頃、どこやそこやでマッチは配っていたのでお金を出して買うことはほぼ無かった(子供の頃のお使いの中に「徳用マッチ」の買い物があったなぁ)そのうち、その「マッチ」自体も100円ライターの出現でほぼ見かけなくなった。そのライターも販促品の代名詞のようになり買うことも無くなったが、時が過ぎて私を含めて周りに喫煙者がいなくなりライター自体も目にすることが無くなった。
 マッチ、ライター、カレンダー、手帳、手拭いと企業の宣伝のために配布されていたものがなくなってきた。日常生活に必要なものが変わっていくのもあるが、企業も費用対効果の見直しもあるのだろう。そう考えると次に消えていくのはなんだろう?

これだけのカモが生きていくにはそれなりの食べ物があるってことだろう。それは川が健康なのかなぁ

僕らはみんな生きている

20世紀末、やたらノストラダムスの予言なるものが流行り、お調子者の私はその手の本やTVの特集を喜んで見ていたものだ。その時「自分が死ぬのと地球が滅亡するのとはどう違うのだろう?」と思ったことがある。やがて、生物科学をきちんと学ぶ機会があり、無知だった私が生命の発生の仕組みを知ってくると、この地球に生命が生まれ維持されていること自体が奇跡であり、生きていることの「勿体なさ」を知る。そしてあらゆる命を乗せている地球が愛おしくなったもんだ。
 ロシアによるウクライナ侵略が始まり、ロシア極悪論が昂まったおりプーチン氏曰く「ロシアがない世界など必要あるか?」と逆ギレしたことがあった。つまりかっての私の発想と同じだ。独裁者は自国、他国の何十万の命が失われようと成し遂げなければならないものがあると言うが、どういう生き方をしてきたら命より重要なものに行き着くのだろう。

志賀海神社から博多湾を望む。 少し前まではこの神社は正月といえどガラガラだったのに、今では大混雑している。ここだけに限らず近年神社はどこも超満員。なぜ?