1960年頃、私は小学生低学年だった。毎年、夏になると海辺の我が家は「海の家」を営んでいた。舗装もされていない海沿いの砂利道を砂埃をたて、鈴なりのバスがやってきた。人々は避暑に海水浴にと押しかけてきた。毎日がお祭りのようであった。それがある時からパタリと途絶えた。物心がついてから知ったことだが、押し寄せてきた人たちは殆どが産炭地からの人たちであった。娯楽の少ない時代だったので夏の海に行くことは最高のバカンスだったのである。なので海辺の住人にとっては飲食料、バンガロー、貸しテント、はたまた貸し蚊帳までなんでも商売になったようである。
ところが日本にエネルギー革命が押し寄せ、短期間で石炭から石油に時代が変わった。我が国はスパッと炭鉱を切り捨て石油の輸入に舵を切ったのであった。それが功を奏して未曾有の高度成長時代に突入したのであった。そして切り捨てられた産炭地には大量の失業者が生まれた。技能や知識のある人たちは転業もできたのだろうが、単純作業に従事していた人たちは宵越しのお金も無く、そのまま炭鉱住宅に住み続け、失業保険が切れればそのまま生活保護の暮らしを続けるしかなかった。多分、炭鉱会社やお上はそれなりの相談には乗ったのだろうがその場にしがみついた人も多かったようである。
正直、旧産炭地は治安が悪かった。長い間、ずっとそんな暗いイメージであった。生活保護での暮らしを余儀なくされた家庭にも子供はいる。そして子供らは働くことを忘れた親を見て育つのである。それが何代も続けばどんな人間が育つかは想像がつくだろう。
今、パレスチナには何百万人の難民がひしめき合って生きている。彼らを難民にしてしまった後ろめたさか、先進国は国連を通して大量の支援金を投じている。聞くところによると、一人8万円、大所帯の風習の民族だから五人もいれば月40万円の収入相当の援助をしているらしい。よく知らないがあの中東地域でこれだけの所得水準であれば働くことは必須ではなくなる。穿った見方をすればむしろパレスチナ国などを建国するよりも被害者であり続ける方が良いと思う人が生まれるのも必然かと思う。しかし実際は支援金は彼らに行き渡らなくて、なぜかハマスの幹部が大富豪であることは国連は知っていたのではないか。
本当に国連がしてきたことは良かったのであろうか?日本の旧産炭地の復興は国や県が辛抱強く大学や産業を誘致・育成してきたのである。パレスチナでは肝心の教育現場で国連職員の仮面を被ったハマスが、イスラエルや西側諸国への憎しみを教えていたのであれば絶望的な状態ではないのか。そしてそれを国連、少なくても現地の担当者が知らないはずは無かったはずである。我が国は世界一、二位の拠出金を出している国連中心主義の国である。そろそろ建前ではなく現実に目を覚ましたらどうかね